逝きし世の面影

先月初旬、久々に古武術研究家の甲野善紀先生に電話をしたら、ちょうど熊本から帰ってきたばかりとのこと。
久々に、と言っても、正確にはほぼ2年ぶりの電話であったのに、こちらから名乗る前から「あ、近藤直子さん」と応えてくださったおかげで、一気に緊張が解けた。
「いろいろあったそうで、どうしてるかと思ってましたよ」と言われて、また一気に思いがあふれる。
今までの経緯、いろんな方々にお世話になったこと、柳生の方々に恩返しをしたいことなどなど…、気が付いたら、マヌケなことに半ベソかきながら話していた。 改めて話をしていると、未熟者の自分が如何に多くの方々に助けられてきたかが感じられて、どうしても胸がいっぱいになってしまう。「直子さんは、いろんなことを経験しそうな人に観えますからねえ」と、先生も納得されている様子。

3、4年ほど前だったか、初めてお会いしたときから、先生に対して理由のない安堵感と親近感を抱いている。
もともと根っからの体育嫌いで、武道のことも武術のことも、何も知らなかった。そういうこととは無縁だと思いこんでいた。
ところが柳生に暮らし始めて以来、古武術の里という土地柄のためか、古武術関係の方々とのご縁が生まれ、何かとお世話になるようになった。

あるとき、「甲野先生という有名な古武術研究家の方の講習会を柳生で開催するから、是非、参加するように」とのアドバイスをいただいたので、とりあえず「見学」コースとして参加することにした。(当時の講習会は「参加」と「見学」に分かれていて、見学の方が安かった)

当日、講習会の前に、Rupaに昼食に来られるということで、準備をしていたら、やおらフラリとRupaに入って来られた。
そのときの様子を、今も忘れることができない。
先生の姿を見た刹那、(巨大な人がやってきた!)と思った。
でもよくよく見ると、別に体格が大きいわけではない。
着物に下駄履きのためか、刀を差しておられたためか、どうして大きく見えたのかよくわからないけれど、とにかく大きく見えた。
鋭い眼差しでこちらを見て、店内を見まわし、同行の方々と静かに昼食を食べ、会場の柳生中学校に向かわれた。
先生がおられる間、その場に何とも言えない空気が漂っていた。理由もわからず、なぜだか私は嬉しくなっていた。後かたづけを済ませ、ちょっと遅刻して、中学校の体育館に入った。

すでに、体育館はいろんな種類の稽古着を着た強そうな人達でいっぱい。普段のジーンズ姿のままの私は、またしても一人浮きまくっている。
不思議に見えるけれど、自然に感じられる術の数々。いろいろと解説してくださるのだが、その佇まいがあまりにも自然というか、普通すぎて、大勢に囲まれて先生が立っておられる狭い空間だけが、スッポリ圧が抜けている感じがする。
私は見学のはずだったのに、無意識のうちにどんどん近づいてしまい、結局、人垣の外側から爪先立って懸命に技を拝見していた。

とある技を解説されていた。
「『もう私、ダメだ』と言って、瞬時に、全身の力を完全に抜いてみるんです。それと同時に相手を軽くはらう。すると、押してくる相手をスッと引かせることができます。どなたか、一緒にやってみましょう。あなた、ちょっと来てごらんなさい」
と言って突然、人垣の一番外に立っていた私を手招いて、マットの中央に座らせた。大柄な稽古着の方々が振り返って、一斉に私の方に注目する。

先生も一緒に向かって座り、指示通り、力を込めて先生を押してみる。先生が軽く私を押してくるが、それぐらいでは私も倒れない。
ところが、先生が「もう私、ダメだ」と言った刹那、押されてもいないほどの軽いタッチで、私の全身の力が抜け、仰向けになっていた。

えっ?
倒されたという感覚はまったくなく、むしろそれは、癒しの瞬間であった。一緒にダンスでも踊っているような、軽やかな喜びすら感じられた。
今度は逆に、私が先生を倒してみる。

普段、無意識のうちに力んでしまっている身体。
ところが「もうダメだ」という諦観、全託が、等身大の自分を受け入れさせ、頑張らねばいけないという身体の呪縛を解く一つのきっかけになっていたのだ。
それは魔法のような感覚で、きっとそのとき、私はとても嬉しそうな顔をしていたと思う。
すぐにその言葉自体はどうでもよくなって、先生に組んでいただいたときの感覚だけがずっと残存していた。
その後もいろいろ実験的な実技があり、終了後は運動場で棒手裏剣を打ってみたりと、実に楽しい数時間だった。

夜は久保田亭にて先生を囲んでの懇親会。Rupaにもお客さんたちがおられたので、お客さんが帰られてから、先生にお礼が言いたくて久保田亭に向かった。
場は賑やかにほころんでいて、ちょうど先生はお一人になっておられたのか、、とにかく素人の私に向かって、いろんなお話をしてくださった。武術の話ではない。

在りし日の日本人の話だった。
かつての日本人は、お金に価値をおかず、みな人間らしく自由に生きていたという。本当にやりたいことを素直に極めた、ものすごいハイレベルな職人たちがイキイキと仕事をしていた。
先生の原稿が載っている冊子や、書きかけの原稿の抜粋など、カバンからいろいろ出してきて、私にくださった。おすすめの本の書名を、その場で筆ペンを取り出してサラサラと書いた紙も。
タイトルは、『逝きし世の面影』。

さらに、私のとある質問に、目にも止まらぬ早さで実演をしてくださったが、それはある程度予感はしていたものの、驚くべき内容だった。
そして、公には、そういった分野に関する言及を完全に伏せておられる先生の賢明さに、心を打たれた。
人は不思議なことに心惹かれてしまいがちだし、例えば「気」という言葉一つで探求を止め、いとも簡単に他者に心どころか魂をも明け渡してしまうこともある。
その危険性を誰よりも理解しておられるからこそ、ただひたすら先生は自由に、正直に、ただ人として普通に生きておられる。

こんなに自由に、自分に正直に生きている人が現実に存在していること自体が、とても嬉しく、なぜだか果てなき希望を与えられたような気がした。

翌朝、先生を見送った後、早速、『逝きし世の面影』を注文。
それは、いとも懐かしき、「人間臭い」世界だった。

柳生に来て以来、折に触れて感動を与えてくださった古老たち。その直系の祖先ではないかと思われるほどに、底抜けに明るく逞しく、おおらかな人々の様子が描かれてあった。
読みながら、まだ完全に逝ったわけではない、とほくそ笑んでしまう。

ここ東山中(大和高原)は、江戸時代から続く与力制度が残っている。制度としては途絶えた集落もあるが、その気風はそのまま継承されている。そのお陰で変わり者の私も地域に迎えられ、日々刻々と移ろう美しい地域の自然、「広大な庭」を心安らかに愛でることができたのだ。田舎では変わり者は受け入れられないというイメージがあるが、実はその反対であると感じる。自給自足時代を生き抜いた山の古老たちはみな、人の弱さと逞しさを熟知している。どんな前科者であっても、こちらが本当に心を開きさえすれば、あるがままを受け入れてくれる。

思いっきり多様な里人たち。そのつながりの中心には、思想やプロパガンダとはまったく無縁な、ただ純粋に故郷を思う心がある。
無住の神社の広い境内に、落ち葉一つ落ちていないのは、なぜか。
いつお参りしても、どうして供物がいつも整えられているのか。
お参りする度に、なぜいつも心が安らぐのか。

祭日や節目だけではない、常日頃、毎朝、心を込めて境内を清めておられる村の方々がおられるから。年ごとに役割を転じながら、どんな天気の日にも、誰かが常に役を果たしておられるから。
彼らの仕事は、いつもその場を明るく、気持ちよいものにしていく。

…話が逸れてしまった。。この近しくも懐かしい本を推薦してくださったことで、またさらに先生の存在が嬉しく感じられた。
甲野先生は、武術を研究されているということになっているけれど、実は、ただ人間くさく生きることを正直に実践されているだけなのかもしれない。

神秘は、あまりにも地味で目立たぬところに潜んでいて、それはけっこう足下にあったりする。 素直に生きている人ほど、強いものはないと思う。

何年か前に、中学校の体育館で甲野先生に手招きされたのは、そういうことだったのか、と今になって思う。
あれから何度も修羅場をくぐり抜け、「私はもうダメだ」と思う度に、不思議な力を与えられてきた。
魂は幾度となく蘇り、私を救ってくれた。

桜の咲く頃、また先生と再会できるのが、楽しみでならない。

 今年こそ、、、参加するぞー!

★2010年4月11日(日)
    「甲野善紀先生 講習会@柳生」
     ~柳生さくら祭記念企画~
 13:00~16:00(受付12:30~)
 於:柳生中学 体育館(参加費5000円:当日参加OK!)

・ご予約・お問い合わせ
 遊武会 石田さん  ubk.ishida@nifty.com

※さくら祭ステージでの先生の講演会は11:15~です。
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by rupa-ajia | 2010-04-09 20:58 | ◆柳生さくら祭
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