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種を蒔く日々

昨日は朝から、今日は午後から、「柳生木炭組合」の方々が木を切る現場に向かった。
ペンと紙をジャンバーのポケットに入れ、カメラの入ったウエストバッグを装着し、ナタと軍手、天然酵母パンを自転車のカゴに入れて、出発。
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炭は、山から切った木が原料。
火でじっくり蒸し焼きにするという、静的イメージの強い仕事だが、その下準備がこんなにも大変な作業だったとは!
クリ、カシ、サクラ、ナラ、クヌギ…、感謝を込めて、数々の雑木を切らせて頂く。
切った後が大変。そのままにしておくと、山の斜面一帯が収拾のつかない状態。
細い枝は、より細い枝葉をナタでそぎ落とし、束ねて整理整頓。 でも、それだけでへトヘト。
適度な長さに輪切りにした幹の、重いこと。 山の斜面を下に転がすだけでも大仕事だ。
種を蒔く日々_f0018942_154034100.jpgそばで黙々と動く地元のおじ(い)さん、まるでクマのよう。
太いクズのツルをナタで半分にさいて、束ねるためのヒモに。
かさばる木の枝の山を、フヌッと息を吐いたかと思うと、さっさと束ねて、クズのツルで縛っていく。 で、またフッと息を吐いて、巨大な枝の束を頭上に掲げ、軽トラの荷台へ。 一見、軽そうに見えるが、これが実に重く、私などは数センチしか持ち上げることができない。

このクマのような方々の身体は、一体どうなっているのだろう。
日本でクマが絶滅の危機に瀕していると言われて久しいが、クマと同時に、このクマのような方々も、稀少な存在に思えてならない。
昭和30年代にガスが導入される前まで、山仕事を当然のようにこなしていたこの方々は、それ以降の世代とは確実に異なる何らかの感覚をお持ちのようだ。
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それにしても、多様な木々が生い茂る里山の気持ちの良いこと。
土はフカフカ、葉っぱは色とりどり。
雑木は生命力が強く、根本を充分に残して切ると、切り株の横から新しい芽が生えてくる。そうやって数十年単位で木々が更新し、常に若々しい里山が保たれるという。

思えば、私の本籍地は中国地方山間部で、田舎の家は里山(岩舟山:イワクラどっさり)のすぐ下にあるが、木に関係する山仕事で山に入ったことは一度もなかった。
ここ大和高原に移住してからも、歩いて散策するのみで、作業として入ったのは初めて。
「里山の大切さ、炭の素晴らしさ」を伝えるためだけに、炭焼を復活させた、このクマのような方々と山仕事をしていると、自分の内側から「これだ」という深い肯定の声が聞こえてくるような気がする。

先日、あるサイトで、「和光同塵」の意味が掲載されていた。
     光を和(やわら)げて塵(ちり)に同ずる。
「和光」とは自分の持っている高い道徳的品性と秀れた才智の輝きを和げる、即ち、表に出さないこと。
「同」は同化の意で人を感化して自分と同じくさせる意。
「塵」はちりやごみのこと、汚れた現実の娑婆(しゃば)世界を指す。
即ち聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入って衆生済度すること。
真実、禅の悟りに至った道人は学んだ法も、修した道も少しも表に出さず、悟りだの、迷いだの、仏だの、神だの、その影さえ見せず、馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのかさっぱり見当がつかない境涯で長屋の八つぁん、熊さんの手合いと同居して、人知れず衆生を教化済度していく。
神人は「和の光」を「人知れず」照射することにより、人に気づきを与える。
和の「実践」こそが、和光同塵。

柳生のクマの皆さんは、何も声高に主張されない。
同じく「柳生 川の会」も結成され、目立たぬように活動されている。
柳生では蛍を数多く見ることできるが、私はこれを自然現象だと思っていた。
ところが、実は、30年前に結成された「川を守る会」(「柳生 川の会」の前身)の皆さんが川の清掃やカワニナの放流をされて、10年ほど前から劇的に数が増加したという。
会の活動どころか、会の存在自体すら主張しない皆さん。この事実を知ったとき、感謝と同時に、心の底から敬意の念を感じずにはいられなかった。

在りし日の幻影とされている日本人の美徳。ここ大和高原では、今なお健在だ。

皆さん、普段は作業着姿の地味なお姿だが、実は県指定無形文化財の「柳生十二人衆」の宮座に入っておられて、秋の大祭の折には、相撲の舞、ヨーガの舞などを披露される。

 和光同塵とは、この皆さんのことを言うのではないだろうか。

・・・
ところで先週は、一泊二日で湖北エリアに取材に出ていた。
今回はプレスツアーで、滋賀県の湖北地方、3カ所の過疎地の地域起こしが主な取材対象。
宿で同室になったベテラン女性ライターさんといろいろ四方山話。彼女の話を聞きながら、過去の自分を思い出していた。 彼女がされている仕事は、以前、私が主にやっていた仕事をさらに固定化したような感じ。
広報誌、記事広告、会報誌、学校取材。すべて、裏側でお金がダイレクトに動いている。教授や医者、学長インタビュー、そう言えば、よくやってたっけ。ベテランライターの彼女は、今の私の仕事ぶりを聞いて、感嘆のため息。
「お金がいっぱい入る仕事に関われば関わるほど、確実に心がすり減るよ。実際、本当にそうだよ。人生のなかで、今のあなたのようなマイペースな時期があるって、素晴らしいこと。そうしたくても出来ない人達が、どんなに多いことか。ほんと、うらやましいわ」

取材2日目は、短い自由時間があったので、地域起こしに奮闘する地元の方々が案内してくださり、いろいろと説明してくださった。 それは実に感動的な内容で、またしてもベソをかいてしまった…。 (「お嬢さん、どうしたんや」と不思議がられることしきり)

柳生や山添村など、大和高原の地域活動について、より深く考える機会が多い、昨今。
湖北の皆さんの活き活きとした言葉を聞いていると、まさしく「大地を通してつながっている」という感覚が喚起されて、魂が震える。

「地域起こしでは、あせってはいかん。みんな、結果を早くみようとして、失敗してしまう。ガラス館やドール館つくったり、キーホルダーなんか作ってしまう。
でも、それは、その土地に、どう関係あるんや?

地域起こしは、その土地に関係あることをせなあかん。
その土地に住んでいる人が居心地良くないとあかん。

わしらには、残さなあかんものがある。
自然や歴史そのものや。
お金のことなんか考えてたら、地域起こしはできひん。
とにかく、ワイワイガヤガヤ、地域のみんなで寄り合うことが大切や。で、そこに年寄りがいること。年寄りも一緒にワイワイしていたら、ブレてこえへんのや。

あのな、自分が蒔いた種をすぐに刈り取ろうなんて思ったらあかんで。
自分が蒔いた種は、次の世代が育てて、その次の世代に収穫できたらいい、ぐらいの感覚でいいんや」

 ゆっくりでいい

 私は種を蒔いているだろうか
 種を育てているだろうか

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その日、余呉の夕日は、限りなく美しかった
琵琶湖の水面に映える夕日の光が、太陽の道となって、私の心を照らす

見渡せば、和光同塵を教えてくれる存在に囲まれている

   すべては光だった


近鉄奈良駅にワタルが息子と一緒に、迎えに来てくれた。
一夜、離れただけで、なんだか大きく見えるよ、我が息子!
2日間、何度、君のことを思いだしていたことか。

いざ、369号を通って、柳生に帰還。
車のラジオから、南の空気を漂わせる歌が聞こえてきた。
大好きな奄美。島出身の唄者が歌っていた。
http://jp.youtube.com/watch?v=-gEHfNxdjAo

「種をまく日々」

だけどいつでも自分を信じて
変わる時代の中 変わらずにいれたら

種をまく日々があって 水をやる日々があって
いつか見えるんだ 希望という芽が
躓いた日々があって 前を向く日々があって
いつか見えるんだ 未知なる蕾が
今はただ 目の前の道
ゆっくりと進んでゆく

遠く 遠く 続いてゆく
僕らの生きる道
重なり合って 繋がりあって
いつかは一面に 笑顔の花が咲く

  ・・・

 大地も人も、すべてはつながっているから
 収穫は、ずっと後になっていい
 
 今は、光の化身たちとともに

   大地の塵にまみれていよう


      ゆっくりと 種を蒔きながら
by rupa-ajia | 2007-11-20 15:37 | 大和高原(地元ネタ)
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